98西アフリカ


次はどこに行こうかと考えつつ旅していたネパールのカトマンズで、素敵なカナダ人女性に「西アフリカは東・南アフリカほど観光地化されてないし、人々が伝統的な精神を大切にして暮していて、いい所よ」と熱く語られ、それならと行ってみることにした。実際観光地化されていないどころか、観光客のためには何一つ用意されておらず、街から街へと移動して人を見るだけの旅となった。全体的な印象としてはとにかく貧しい。そして全てがスローテンポかついい加減で、最初はいらいらさせられたものの、慣れた後はこの上なくリラックスした(ぐうたらな?)旅となった。

いろいろと印象的だった今回の旅だが、あまりスライドは撮らなかった。理由としてはまず、観光客に接する人(写真1)を除けば、人々が基本的にカメラをとても嫌がることがある。撮らせてくれても市場のおばさんなどには必ず金を要求された(ので撮らなかった)。貧しい人々や葬式には心を打たれたが撮るわけにもいかないし、結局撮れるものと言ったらどこへ行っても変わらない町並みくらいしかない。それに私自身、旅行が始まってすぐに風邪を引いてしまいずっと体調が悪かったのと、向こうのぐうたらな生活ペースに慣れた後は、あくせく観光してパチパチ撮ろうなどとは畳の毛ほども思わなくなってしまった事もあった。そんなわけで肝心なものはほとんど全く写っていないと言ってもよいので、様子は下手な文章から察してください。


1. セネガル(2/26〜28)

アエロフロートで乗り継ぎも含めて29時間(帰りは36時間)、ダカール空港に降り立った第一印象は「蒸し暑い」の一言であった(後から考えるとダカールはとても涼しかった)。いきなり話がそれるが、アエロフロートというと乗ったこともないくせに毛嫌する人が多いが、あれは全然OKである。とにかく安い。今回なんかアフリカ往復で13万円である。もっとも、お得意様の成田ーモスクワ線が西側のエアバスを使っているのに対し、モスクワーアフリカ線は機体もサービスもひどい。座席の方もアフリカ線になるといきなり自由席になってしまう(誰も指定された席に座ろうとしない)所がおかしかった。

ダカールはカトマンズよりややマシ程度の汚さだったが、観光客から何とかして金をふんだくろうと寄ってくる奴はカトマンズよりはるかに多く、ひどい所だった(もっとも力ずくで奪おうとかそういうのはなく、はっきりとNOと言えばすぐに離してくれたが)。普通の市民は善良そうなのだが、フランス語しか通じないので話せない。道を尋ねれば、横から英語の話せる観光客狙いの奴がすっ飛んできて自分の思う所へ連れていこうとするし、そいつを振り切ってカフェに逃げ込んで高校生と友達になったまではいいが(写真2)、別れる段になると「こないだ親父が死んだ」とか言い出して最後は金くれの大合唱になるし、ネパール同様ここで友達をつくるのは難しいだろうなと予感せざるを得なかった。


2、マリ(2/28〜3/11)

静岡県から来たK君と共に、28日午前11時列車でダカールを発った。すしずめという噂の二等客車はさすがに敬遠し、一等に乗り込んだ。運賃はバマコまで約六千円、二等でも四千円はするので一等が特別高いわけではないのだが、割と身分のしっかりしていそうな人ばかりで安心した。一時間ほどで着いた最初の停車駅でいきなりハプニング。列車が動き出した時、K君が窓からプラットフォームを眺めていたら、子供が死角からジャンプしてきて眼鏡を引ったくられてしまった。あんなもん盗ってどうするのかと思ったが、ど近眼のK君は途方に暮れていた。彼とはダカール空港で一緒になり、同じ日にダカールin、四週間後にアクラでout、考えていたコースまでほとんど同じと分かり驚いていたのだが、彼は結局バマコでもいい眼鏡が作れず、早々と日本へ帰っていった。

ダカールを後にすると列車はひたすらサヘルの乾いた大地の中を進む(写真3)。二、三キロごとに集落があり、よくこんな所に住むなあと思った。一時間もすると車内は朦朧とするような熱さになった。ここら辺が地図の上でも最も暑く、50度近くあったのではないかと思う。列車の窓からは細かい砂を大量に含んだ熱風が吹き込んできて、午後の二、三時間はひたすら耐えた。

駅に着くごとに、村人が待ち構えていて水や食べ物などを売りに来る(写真4)。持っていたミネラルウォーターもすぐにお湯になってしまうので、私も危ないとは思ったが五円もしない井戸水パックに手を出してしまった。売りに来るのは子供も多く、またそれ以上の数の物乞いの子供がいた。ある駅で乗客がフランスパン(セネガルもマリもフランスの植民地だっただけあって、とてもおいしい)をちぎって皿に盛ったのを窓から線路上の子供に渡したら、たちまち四、五人駆け寄ってきて引ったくり合いになった。絶句した。

翌朝国境の大きな川を渡ってマリに入る(写真5)。こういう場所でたまに川を見ると本当に驚きと新鮮さを感じた。マリに入っても、メサやビュートが見え出したのを除けば、サヘルの乾いた光景も村々の貧しさも変わらない。時刻表では午後3時のはずが、結局午前1時バマコ着。街を歩くのは怖いので、駅前のクーラー付の高いホテルに泊ったら風邪を引いてしまい、以後二週間苦しむことになった。

バマコも排ガスだらけでごみごみした、とても首都とは思えない汚い町だった(写真6は蚊帳を買いに行ったマーケット)。観光客を狙う男どもが多いのはダカールと同様で、マリはドゴンやジェンネなどの観光地があるせいで、ガイドに雇ってくれと余計うるさい。朝宿を一歩出た途端に「俺の話を一分聞いてくれ!」とすっ飛んでくるのには参った。寄ってくる奴が全員「俺はアレックス・ニュートン(ロンリープラネット西アフリカ版の著者)と友達なんだ」と言うのもおかしかった。バマコでは質を落として一泊600円の宿に泊ったが、当然部屋は隙間だらけで、夜中目を覚ました時には蚊帳の上で無数の蚊の羽音が聞こえ、マラリアの恐怖でとても朝まで出られなかった。

バマコに三泊して夜行バスでモプチへ。この時も四時出発なので三時までに来いと言われていたので行ったが、四時になってようやく乗客の荷物をたらたら積み始めた。五時半になって準備完了となり全員乗り込んだが、エンジン故障と言われ又ぞろぞろと降りた。そのうち日は暮れるし、そうするとみんないきなりじゅうたん敷いてお祈り始めちゃうし(セネガルもマリもブルキナも基本的にイスラム教)、結局出たのは七時半だった。アフリカとはこんなもんかと悟った。翌朝着いたモプチは観光地への拠点となる町で、バスを降りたらガイドが山のように寄ってくると聞いていたので覚悟していたら、一人しか来なくて拍子抜けした。即決で雇ってドゴン五日間の旅に出た。

ドゴン族の村は、ブルキナファソ国境に近い長さ約百キロのバンジャガラの崖の下に数キロおきに列をなしている。ドゴンは複雑な文化、洗練された神話体系、豊かな仮面の儀式などで知られており、ドゴン村めぐりは西アフリカ観光のハイライトの一つである。もっとも私が訪れたときは儀式も何も行われてはおらず、単なるマリの田舎村めぐりといった感じだった。ただ知名度の割に観光地化されていなかったのは幸いで、電気も水道もない村を訪ね歩くのは単純に楽しかった。

我々旅行者はガイドを雇うのが半ば必須になっている。私が雇ったアブゥは英語が非常にプアーだったのを除けば気のいい親切な男で、食事もお茶もネスカフェも「みれてぃんびえ〜る」(地ビール)も ○○○○○も頼めばすぐに持ってきてくれた。私は毎日数キロ手ぶら出歩いて次の村へ移動するだけでよく、あとの時間は読書したり村の中を散策したりしてのんびりと過ごした。ちょっとした大名旅行だった。

初日に訪れた村では毎週一回の市が開かれており、女性の色とりどりの着物が鮮やかだった(写真7写真8)。旅行者は村長の家に泊る(写真9)。100キロ離れたモプチにはうじゃうじゃいたのにドゴンには何故か蚊がおらず、最初の二日間は空の下で寝させてもらった。残念なことにハルマッタン(冬にサハラ砂漠から吹く季節風)が終わっておらず、空が常に濁っていて星が見えないばかりか、明け方はかえって寒いくらいであった。

写真10はドゴンの村の風景。後方に見えるのがバンジャガラの崖である。この写真では良く見えないが、崖の中段に無数の家があり、登ると写真11のような風景になっている。アブゥによると、これは昔この地に住んでいて後にドゴンに追われたピグミーの住居跡だそうで、確かにどの家も我々が住むには小さ過ぎる(半分くらいの大きさ)。中には写真12のような小部屋?もあった。もっと詳しく知りたかったが、何しろアブゥは英語がプアーなので、2日目以降は初日と同じ説明を壊れたレコードのように繰り返し聞く羽目になり、もどかしい事この上なかった。

ドゴンで一番よかったのは三、四日目に二泊したベニャマトの村である。ここの風景はグランドキャニオンを思わせ(写真13)、夕暮れ時に食事の支度で騒がしい家々をこの風景をバックに高台からのんびりと眺めていると(写真14)、風邪のだるさも吹っ飛ぶ思いだった。またドゴンの村はそれぞれ宗教別にイスラム、カトリック、プロテスタント、アニミズムの四つの集落から成り立っているのが普通なのだが、ベニャマトでは初めてイスラム以外の集落に泊まり、マリではあまりお目にかかれない豚のバーベキューにありつけた(アブゥはイスラム教徒だが豚も食えばミレットビールもがぶ飲みしていた。ただお祈りだけはいつも真面目にしていた)。

マリの人々で印象的だったのは、よく口論(?)をすること。毎回最初は普通の話し合いなのにすぐに白熱してケンケンガクガクになるので、こっちはいつもそばでハラハラのし通しだった。ドゴンからモプチに帰ってきた時も、満員の乗り合いトラックの荷台で3、4人のほとんど喧嘩にしか見えない言い争いになり、言葉の分からない私は「これって俺のことで喧嘩してんじゃねえだろうなあ…」と思って隅で小さくなっていたが、後で一人に聞いたら「ああ、あれは今と昔の家族のあり方について皆で議論していたんだ。バスの中とかでああいう風に議論するのは僕たちにとって格好の暇つぶしなんだよ」と言われ、拍子抜けするやらほっとするやらだった。

モプチに帰り、アブゥがおじさんと下宿している集合住宅に二泊させてもらった(写真15)。人口四万人の町とは言え、まあ平均的な家なのだろう、壁は土、もちろん電気・水道はなく、トイレは青空の下、風呂はバケツシャワー、トイレも風呂場も私がこの世で最も恐れるゴ○○○で一杯だった。しかし隣り近所の人達(女性と子供しかいない)は言葉こそ通じなかったが皆親切で、おじさんと三人で一つのボウルを手づかみで食べた下宿の食事はおいしかった(一回ソバガキにそっくりのが出た)。

モプチの近くには巨大なモスクと月曜の市で有名な観光地ジェンネがあったが、体調の良くなる兆しがないので早く英語圏のガーナに逃げたくなり、七人乗りのバンに十人を詰め込んだ乗り合いタクシーでブルキナファッソへと移動した(写真16)。国境のブルキナファッソの税関では必要な予防接種を一つ打ってないことが分かり、初めてワイロを要求されたが(といっても「私のための小銭はないかね?」というかわいいものだったが)、フランス語が徹底的に分からない振りをして「これですか?」と十円玉を差し出したら、「もう行っていいよ」と呆れ顔で言われた。勝ったと思った。

税関の先の町で休憩したときに何日か前に買ったバナナ一房を食べていたら、最後の一本がものすごく傷んでいたので、もうこりゃさすがに食えんなと思って地面にポイっと捨てたら(ゴミ箱なんて者は一切ないので、ゴミはその場に捨てるのが基本)、そばで見ていた物乞いの子がおずおずと寄ってきて拾って食べ出した。胸が痛んでもう食べ物は絶対残すまいと思った。


3. ブルキナファッソ(3/11〜13)

ブルキナファッソにはマリからガーナに移動する途中、首都のワガドゥグ(写真17)に二泊しただけとなった。自転車がやたらと多い町だった。ブルキナも貧しさはガーナと同じくらいなのだが、物乞いや観光客にたかる人間がほとんどいないので理由を尋ねたところ、大統領だか王様だかが物乞いを禁じ、国民は全員働くように呼び掛けたからとのことだった。偉いと思った。

ある日の昼間、ブルキナの宿で体温を測ろうと思って水銀体温計を取り出した。40度くらいあったのでがんがん振ったが38度にしかならないので、もう一度振ったが、38度のままである。しばらく繰り返した後で、気温以下には下がらないという事に気付いて苦笑した。38度と言っても湿気がほとんどないので、日陰にいる限りは全く苦にならない。しかしそのままでは体温が測れないので、毎回ミネラルウォーターに体温計を突っ込んで温度を下げてから測らなければならなかった。

ブルキナからガーナへはガーナの国営バスで移動した。かなりいいとは聞いていたが、出発の日ほぼ定刻通りにバスが出発したときには天変地異でも起こるのではないかと思ってしまった。車体も日本のバスと比べて遜色なかった。先日の一件以来食べ物は残さないぞと固く誓った私だったが、途中の休憩でマンゴーを買って、ナイフで皮をむいて食べていたら、そばで見ていた物乞いの子がその皮を拾ってしゃぶり出したのには絶句させられた。


4、ガーナ(3/13〜26)

バスがガーナに入ると心なしか町並みがマリ・ブルキナに比べてきれいになったように感じる。もっと劇的に変わるのは人々の性質である。ガーナ人はよく言えばおっとり、悪く言えば怠け者だが、とにかく皆親切で、セネガル・マリと違い金をふんだくろうとする奴は全くいないし、観光客と見るや否や値段を五倍十倍にしてくるようなこともなくなった。おまけにみんな英語をしゃべるし、物価は前の三ヵ国の半分くらいになるしで、初めは天国に来たように感じた。

代わりにこの国で出会うのは、「住所をくれ」という注文攻めである。最初に滞在した北部の町タマレでは、子供たちのサッカーをぼんやりと眺めていたら、プレーしていた子供の一人がいきなりこっちにすっ飛んできて「僕と友情を確立してください」と大まじめな顔で言う。思わず吹き出しそうになったが、こらえて「どうすればいいの?」と尋ねたら「住所を交換してください」と言う。そんならお安い御用だと思って交換してやったが、その後二週間の間に同じ事を何十回も言われることになろうとは思わなかった。しかしこの時は初めてだったので、「じゃあ君の顔を覚えるために」と言って写真を撮ったのだが、みんなで一緒に写れよという注文を頑として受け付けずに彼は写真の真ん中に一人収まった(写真18)。

とにかくどこでも街を歩いていると「やあ」と言われるので、「やあ」と応えると、「日本人か?」「そうだよ」「住所をくれ」といつもこんな調子なのである(たいていは子供からだが、大人にも何度か言われた)。まあ住所をやるならタダだからと思ってぽいぽいやってしまった。旅の終わりに知り合ったガーナ人の夫を持つ日本人女性には「そのうち彼らが日本に不法滞在しに来るときに勝手に保証人にされるから、絶対やってはいけない」と言われたが(もう遅いよ)、他の旅行者に聞いたところでは、後で「金くれ、何くれ」という手紙がどっさり来るそうである。何日か繰り返すうちに、確かに彼らに友情を確立しようなどという気はなく、単純に金目当てという事が分かってきた。ある時子供に「どうして住所を欲しいの?」と聞き返したら、「友達になれるから」という。「友達になってどうするの?」と聞いたら、「色々ペンとか靴とか送ってくれて助けてくれると思うから」というので、意地悪く「君はペンフレンドが欲しいの? それともペンが欲しいの?」と尋ねたら、さすがに子供だけあって正直に「ペンが欲しい」と言われた。気持ちは分かるがいくらなんでも短絡的だと思った。

他の旅行者とも話して分かったのだが、彼らは日本やヨーロッパを、何でも只で手に入って無条件でいい暮らしが送れる、楽園のような所だと思い込んでいるらしい。さすがに最後の方は頭に来たので、子供達に住所をくれと言われる度に、日本で暮すのがいかに大変かという事を物の値段を一つ一つ挙げて説明してやった。大人達はさすがに分かっていて「とにかく日本に言って働きたい」と言う。しかしこれを阻止するために先進国の観光ビザは高く、中でも日本とアメリカのビザは飛び抜けていて日本円で50〜100万円はするとのことであった。

タマレは気温は今までと変わらないが湿気が多くて蒸し暑く、風邪による熱が長引いていた私にとっては地獄のような所だった。タマレの近くには東・南アフリカのもの程ではないがサファリがあり、少しはアフリカ観光らしいことをしようと思っていたのだが、蒸し暑さに耐えきれずに中部のクマシにさっさと逃げた。クマシ(写真19)はアシャンティ王国の中心地であり、ここまで来ると都会という感じになった。気温はずっと涼しくなり私もやっと観光する気になったが、見るものはほとんどなく、「国立文化センター」に行ったら広大な敷地に小さな展示室が一つと土産物屋が一つしかなく唖然とした(しかしここでは生まれて初めて女の立ち○○を見た。感動した)。

さらに乗り合いバスで南へ。植生はサヘルの乾燥地帯から熱帯雨林へと変わる(写真20)。小さな漁村エルミナへ向かった。ガーナの南の海岸沿いには、奴隷貿易で使われた城が数多く残っており、エルミナの城(写真21)はその中でも最も有名なものの一つである。エルミナも灼熱としか表現のしようのない暑さだったが、城の内部の光景は悲惨な歴史を思い起こさせ、しばしば立ち尽くした。各地から集められた奴隷がヨーロッパに送られる前にひと月、ふた月と閉じ込められた牢獄(写真22)では不衛生のため多くの者が死んでいったそうである。こういった牢獄の壁は今でも、何とも言えない据えた匂いを放っていた。一番匂いがひどかったのは写真23の向かって左側の窓も何もない部屋で、ここには反抗した囚人が入れられ、一旦入れられると食べ物も水も一切与えられなかったという。奴隷が船に積み込まれる際に通った出口(写真24)の向こうには、子供たちが遊ぶのどかな海の風景が眺められた。

エルミナで泊ったホテルの近くの海岸では、ヤシの木が繁る楽園のような光景の中、漁民達がのんびりと働いていた。彼らにカメラを向けたところ案の定、「俺達に飲み物代を払ってからじゃないとダメだ」と怒られたが、「いくらだ」と聞くと「二千セディ(百円)だ」と言われ、心の中で笑いが止らなかった。「飲み物代」を払うと彼らは俄然親切になり、翌朝の地引き網に誘ってくれた(写真25)。暑い中地引き網を一時間以上もかけて引っ張ってくるのは意外に重労働で私も汗だくになったが、この日の成果は惨々たるもので(写真26)、漁民の間には白けムードが漂った。

エルミナで嫌だったのは、道を歩く度に子供達が「ブニー、ブニー(白人)」としつこく呼び掛けてくることである。とにかくこっちが反応を示すまで「ブニー、ハロー!、ブニー、ワッチョァネーム?、ブニー!!、ブニー!!!」と全員で叫び続けるので、イライラさせられ通しだった。

次にエルミナのとなり町のケープコーストに行き、エルミナの城と共に世界文化遺産に指定されている城を訪ねた。この城は展示室が充実しており、当時のポスターのコピー(写真27)が印象的だった。

最後に首都アクラで四日間を過ごした。ここでは体調も良かったので、友達から頼まれていたある楽器を探して町中をひたすらぐるぐると歩きまわっているうちに、あっという間に四日経ってしまった。この頃には街角で売っている食事を手づかみで食うことに何の抵抗も感じなくなった。とにかく安い。ホテルの近くの路上の屋台(写真28)で飯を皿に一杯盛って肉か魚をひと切れを乗せ(肉・魚は高い)、さらにサラダとスパゲティーを乗せて、最後に肉の煮汁をかけて、全部で百円である。これが実にうまかった。高くて遅いレストランには全く行かなくなってしまった。

最終日、乗客が乗り込むとあっという間に蒸し風呂のようになり、飛び立って上空に来るとたちまち冷凍庫のようになるアエロフロート機でモスクワへ向かった。隣りに座ったドイツに行くという女性が、モスクワで乗り継ぎの際に友達のパスポートを使っていたのがバレて強制送還になったのにはたまげた。多額の投資がパアになった上に、寒いモスクワ空港のロビーで二週間帰りの便を待つ羽目になるという。半袖のワンピース姿でうなだれている彼女に、私は「グッドラック」としか言えなかった。しかし、どうしてモスクワ空港のトイレ付近にはゴザを敷いて寝ている人が沢山いるのかという前からの疑問がこれで分かったような気がした。


追伸。この旅行のプランを立てるにあたり、旅行会社道祖神の築地さん他社員の皆様には色々とアドバイスを頂きました。ありがとうございました。

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