97ネパール


グリーンランドの次にネパールを選んだのは、エベレストを一度この目で見てみたいというミーハーな動機からだった。さっそくロンリープラネットを買って読んでみると、山あり氷河あり、費用も格安で、私はうれしくなってさっそく雄大なトレッキングプランを作り上げた。それが(エベレストを見るという目的は一応果たしたものの、)富士山と変わらない高さで高山病にかかって肺水腫になり、トレッキングルートの入口ですごすごと引き返してくることになるとは夢にも思っていなかった。今でもあれが命に関わるような大事件であったとは思えず、帰国後ネパールでの診断書を見せに行った近所の医者に会う度に「あれは死んでも全然おかしくないんだからね。気をつけなさいよ」と言われて苦笑している。

関空からロイヤルネパール航空で9時間、悪名高きカトマンズ空港に無事着陸し、安堵のため息を漏らした。発展途上国への旅はこれが初めてで、狭くて汚ない夜の路地を信じられないほどのスピード(とクラクションの音)で飛ばしていくタクシーの窓からの眺めが新鮮だった。翌日カトマンズでトレッキングの許可書をとり、次の日さっそく19人乗りのプロペラ機(40分間の飛行中揺れ通しで、外の風景を楽しむどころではなかった。が、前の席のシンガポール人の兄ちゃんはぐーすか寝ていた)で、標高2800mのルクラの村(写真1)へ飛んだ。回りは五、六千m級の山々で気分は早くもヒマラヤである(実際ヒマラヤなのだが)。このルクラから、エベレストを間近に見られる標高5545mのカラ・パタールの丘を目指すのがエベレスト方面のトレッキングで最も人気のコースである。ガイドに雇えとひつこく言い寄ってくるシェルパ達を振り切って、シンガポール人の若者グループと一緒に歩き始めた。幅1mはある道はしっかり踏み固められており、高尾山ハイキング並みの快適さである(写真2)。少なくとも二、三時間おきにロッジがあり、お茶や食事をとれた。初日の晩泊まったロッジは一泊わずか55円で感激したが、シャワーは出ず、部屋の広さは淡青丸とどっこいどっこいで、後から考えれば当然であった。

2日目、標高差600mを一気に上がって、標高3440mのナムチェ・バザールの村(写真3)に到着した。ここはエベレスト方面のトレッキング基地のような所で、ロッジ、トレッキング用品店、土産物屋などが狭い土地にひしめき合っている。ここで、私も目指すカラ・パタールに往復六日間で行ってきたという東北大学の兄ちゃんにあった。六日間とは何と無謀なと思った。かなりぜいぜいしていたので経度の高山病だったのだろう、これ以上ひどくならないことを祈った。

ガイドブックなどには、高山病にならないために標高3000m以上では一日300m以上高度を上げないように、などと書かれている。が、個人差が大きく、東北大の彼のようにこの倍近いペースで登っても大丈夫な人もいれば、富士山より低い高さで発病する人もいる(私だ)。前の年に親父と富士山に登り、山頂で連続で30mとは歩けなかった私はかなり弱い部類に入るはずで、もっと注意を払うべきであった。3日目、ガイドブックに従いナムチェで高度順応のための滞在日をとったが、じっとしていられずシンガポール人達と散策に出かけ、青空の下エベレスト(写真4)を見た喜びから調子に乗って標高3871mのホテル・エベレストビューへと足を伸ばし(もっともこれも高度順応のためであり、ガイドブックにも書かれていることであるが)、自己最高高度更新などと浮かれていた。その晩頭痛を感じ、呼吸をする度に喉の奥がゼーゼー言ったが、食欲もあり、軽い風邪だろうと思って気にも留めなかった。

次の日、予定ではナムチェからプンキタンガ(3250m)へ下り、寺院で有名なタンボチェ(3867m)まで歩くはずでした。ここから先は、旅行中つけていた日誌を載せた方がリアルでしょう。(高山病に関係ない部分は省いてあります)


3/17(月)
高山病ブレイク!5時半起床。脈拍92。軽い頭痛。シンガポール軍団と一緒に歩き始めたら昨日までと比べて話にならんくらいきつい。特に登り。息はあっという間に切れるし、何より足が前に出ない。二日酔いで400m走をやるようなキツさ。軍団がやたらと気づかってくれ、クソッと思う。しかしそのうち置いていかれる。まあその方がずっと楽でいいんだけど。タンボチェまでは死んでも行けそうにない。

お茶しに寄ったロッジでウトムに売り込まれる。けっこう弱気になってたので交渉して、一日8ドルで雇った。この宿に泊まることにした。

宿に腰落ち着けたらどっと頭痛が出た。早く昼飯食って昼寝したい。あーあ。くそ高山病についてもっと書きたいが気力が起きん。早く寝たい。

昼飯(ポテトgood)食って体温まった。頭痛もとりあえず収まって、日だまりの中でまったりしたら気分も落ち着いた。こんな感じで高い山を見ながらぬくぬくするのもいいものだ。

17時ドクターが来て起こされる。「頭のてっぺんが痛いのは典型的な高山病の症状。頭のてっぺんに水がたまりつつある。明日プンキタンガへ下ってそこで寝ろ。よくなったら次の日タンボチェへ行け。頭痛を感じたら絶対に高度を上げるな」やたらと寒いので熱を計ったら8度3分もあった。「アスピリン飲んでいい。もしそれで収まれば頭痛は風邪のせいかも。寝苦しかったらdiamox(注:高所に効く薬)半錠飲め。寝やすくなるはず。明日の朝ヤバかったらペニシリンやる。とにかくたくさん水を飲め。まだちゃんと話せるし運動障害も起きてないからむちゃくちゃヤバくはない」出かけていたウトム戻ってきてホッとする。宿の人もドクターもポーターの人もみんなありがとう!今思えば去年のグリーンランドはムチャだったわ。ゆっくりゆっくり行ってカラパタールにできれば行こう。頭痛い。食欲も落ちてきている。19時半就寝。

3/18(火)
7時起床。ぐっすり寝た。息苦しさはなかった。「動いてないからあたり前」しかし明け方から頭痛ひどい。

死ぬかもしんないと思った。やばい。

今19:30。昼から眠り続け、ガーリックスープ、ホットチョコレート、ジャスミンティーの夕食をルームサービスで頼んでやっと落ち着いた。最初プンキタンガへ下りようかと思ったが、そこでひどくなると手の打ちようがないのでジョルサレを目指すことにする。死ぬほどきつい。ウトムが神に見える。人生で一番きつかった。熱は8度台、ナムチェに着いたら9度4分になっていた。(注:高山病で熱が出るのかどうかは知りません。多分風邪もひどかったのでしょう)日光が死ぬほどきつかった。ジョルサレはとても無理なのでナムチェに泊まることにする。

歩いているとき多分熱のせいでフラフラだった。登りだと全く前に進めない。ウトムに会わなかったらひょっとして死んでいたかもしれない。

ウトムが何回も見舞いに来てくれる。ぐっすり寝た。何をするにも頭が痛い。ひどい風邪なのでは。痰が茶色かった。ウトムが明日クンデの医者に行ってくれると言っている。

夜もめちゃめちゃエグかった。バファリン効かじ。

3/19(水)
一日高熱と頭痛。寝る。(注:この日はほとんど自力で動けなくなり、階段を一階下りて十歩外に歩くだけのトイレに行けず、ペットボトルに小便していた)ウトムが朝病院に行ったが、診ないと薬は出せないとのこと。ドクターが3〜4時ごろナムチェに来るというのでまったが来ず。らちがあかんので、馬で病院に運んでもらうことにした。

19時半にウトムの友達二人と馬一人が来て出発。月明かりの中、ナムチェからの道を登っていく。半月+α。下にはナムチェの村、回りには六千m級の山がぼーっと浮かび、美しかった。久々に生きてると思った。クンデまで一時間半。手袋忘れたので手だけ寒かった。

問診のあと長々と聴診器を当てられる。薬を飲まされて、酸素マスクをつけて寝た。部屋には子供2人とウトム。ぐっすりと寝た。

3/20(木)
自分が何をできるか、よりも自分が人に何をしてあげられるかを考えなくてはならない。普段住む家があって、家族がいて、医者がいて、飲む水があって、食うものがあって、道路があって、救急車があって、安全があって、仲間がいることに感謝しなければならない。

ぐっすり寝た。二日間続いた呼吸するときののどのごろごろがとれていた。熱を計ったら何と6度7分になっていた。ウトムのもって来てくれたホットチョコとジャスミンティーのおいしかったこと。軽い頭痛のみ残る。とにかく一息ついた。ありがとう。トイレしに外に出た。ナムチェとは違った風景が見えた。先生にあんまり長く酸素マスクを外すなと言われる。同部屋の足の悪い少年とその姉ちゃんらしき二人、私のガイドブックを熱心に見る。姉ちゃんは隣の診察室も熱心に覗いていた。

10時半。血中酸素濃度昨日の60から81になる。(注:近所の医者によると普通98〜99%。たばこを吸う人は95くらい。ぜいぜい言ってる老人で80くらい。私の58というのは普通ありえないとのこと)Goodと言われた。脈拍もなんと67になった。amazing。とにかく二、三日続いた半モーローから覚めたのがうれしい。

その後X線、心電図をやる。酸素徐々に減らし、午後にはマスクなしになった。しかしまだ便所に出ると苦しい。昨日の友達来る。馬4000ルピー(注:約9000円)。んなばかな。ウトムは普通5、6000と言うが。新たな不安増大。しかし生きるか死ぬかの不安に比べれば小さいもの。何とかなるさ。

昼飯を二日ぶりに食ったが、まだ食欲全然ない。診察室の女のコ、陣痛始まる。いろいろ起こって目まぐるしい。

3/21(金)
ぐっすり寝た。酸素85になっていて、今日明日に退院できそうと言われる。ウトムが来ていろいろ話す。

許可をもらってすぐ下のロッジにウトムと昼飯食いに行った。こんなに病院を出るのがうれしいとは思わなかった。早くも退院気分。今日は頭痛もなく昨日よりずっといい。ダルバートうまかった。ホットレモンうまかった。とにかくうれしかった。しかし鏡見たら頬がこけまくっていて、すさまじかった。

ドクター来る。あと二日くらいクンデにとどまって様子を見たいと言われ、一瞬絶望的になった。しかしルクラ下山プランを話したら、それならナムチェに下っても全然問題ないと言われた。

やったー!!!!!!!!!!!!

入院費440ドル。

がーん。

しかし我が家(注:保険屋)に電話して事なきを得る。はじめて東京海上のありがたさを知る。先生超いい人だった。ありがとう。

診断書の内容は以下の通り。この後ナムチェバザールに戻り、恒例の土曜日のマーケット(バザール)を見(写真5)、ルクラまで二日間歩き、飛行機でカトマンズへ戻った。

カトマンズ(写真6)で二日間静養したあと、バスでポカラに向かった。ポカラはネパールで一番人気の高いアンナプルナ方面のトレッキングの拠点となるところである。アンナプルナ方面はエベレスト方面よりもずっと高度が低く、残りの二週間こちらでトレッキングをして過ごすことにした。

天気が良ければアンナプルナやマチャプチャレなどの山々がポカラからも眺められるのだが、私が言ったときは曇っていて何も見えなかった。(注:ネパールのベストトレッキングシーズンは秋。私は春に行った)ポカラから山の麓までタクシーで行き、二日間歩いて標高2100mのチョムロンの村に着いた。ここから名峰マチャプチャレが間近に見られるはずなのだが、二日間山の上の方は曇り通しで、我々が到着した夜などは大雨が降ったほどだった(写真7)。仕方なく宿の人達にうすのろばかまぬけを伝授するなどして時間をつぶした(写真8)。こうして二晩待った次の朝、空は見事に澄み渡り、マチャプチャレ(写真9)やアンナプルナサウス(写真10)がその美しい姿を現した。他のトレッカー達とみんなでロッジの前で一時間ほど立ち尽くして眺めた。

この後谷を登って標高3900mのアンナプルナベースキャンプまで行こうかと考えたが、上の方では雪崩が激しいらしく、下りてきた人が「走って逃げた」と言うので、一回の旅行で二度も死にそうな目に会うことはないなと思って止めにした。ルートを変え、タトパニの温泉につかり(写真11)、有名なプーンヒルの丘からアンナプルナ(写真12)やダウラギリ(写真13)を眺めて帰ってきた。

ところでトレッキング中の食事は、前に書いたように多数あるロッジで簡単にとれるのだが、トレッキング客の大多数を占める白人のために、スパゲティーやフライドポテトといった西洋メニューもふんだんに用意されていた。が、これらのメニューはたいてい異常に油っこく、私には食えたものではなかった。私のお気に入りは何といってもダルバート(写真14)である。ご飯(バート)にダルと呼ばれる豆のスープと、副菜として野菜を炒めたものなどが付くのだが、飽きが来ず、これだけはたいていお替わり自由なこともあって、最後の方は毎日食っていた。

というわけで前半は結構大変なことになってしまった今回の旅行だったが、病気になったこと以外でも色々と考えさせられた。まず、ネパールがこんなに貧しい国だとは想像していなかった。美しい山々とものすごい経済格差が多くの裕福な外国人を連れて来る結果、ネパール人の間では「外人=金」という図式が完全にできあがってしまっているように思えた。もちろんその事でネパール人を責めることはできないが、私は前年のグリーンランドの旅で人の親切をたっぷりと味わっていただけに、ビジネス抜きでネパール人と友達になることがほとんど不可能と悟ったときはショックだった。

もう一つものすごく目についたのは白人のごう慢さだった。白人というのはどうしてああ自分の生き方、主張を絶対に変えず、普段と同じムードをどこに行っても求めるのだろうか。全ての白人がそうだとは言わないが、ネパール人に接する白人の態度を見てたびたび不快になった。

結局ネパールというのはディズニーランドのような所だった。いろいろとアトラクション(山)が用意されていて、金を出せば宿にも食事にも困らないが、そこに住む人々との(真の)触れ合いはほとんど期待できない。他の旅行者との触れ合いもこれまでの旅に比べるとはるかに少なく、一人旅に向いたところでは全くないと思った。もっとも今回私が行ったのは完全な「観光地」であり、それだけでネパールを判断するのは東京ディズニーランドだけから日本を判断するようなものであるが。


早く書けとの催促のメールを頂いた方々へ:どうもお待たせいたしました。実はこの度(1999年4月)、再度ネパールにトレッキングに行ってきまして、この文章はトレック中のあり余る暇を利用して書き上げました。ちなみに無謀にもエベレスト方面に再挑戦したのですが、今回は大成功で、ゴーキョ・ピーク(5360m)とチュクン・ピーク(5546m)に登り、最高の景色を楽しむことができました。今回の旅の写真が見たい暇な方は、また催促のメールを送ってください。もっともこれから博士論文執筆でそれどころじゃないと思いますが)

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